「一条美賀子」慶喜の正室。10年以上の別居の末に築いた良好な夫婦関係!?

夫婦の形はそれぞれ違います。最後の将軍家御台所・一条美賀子(いちじょう みかこ)と徳川慶喜(よしのぶ)の夫婦も、独自の夫婦の形を築きました。


美賀子は公家の家に生まれながら、江戸の慶喜へ嫁ぎます。
時に嫉妬に狂いながらも、自分の苦しみと向き合って10年以上の別居を選択。維新後は慶喜と同居して、側室が生んだ子供を二十人育てます。

美賀子はどのように生き、どう慶喜を愛したのでしょうか。一条美賀子の生涯を見ていきましょう。


公家の姫として

今出川家に誕生する

天保6(1835)年、一条美賀子は今出川公久の娘として生まれました。幼名は延君(のぶきみ)と名乗っています。


今出川家(菊亭家)は、清華家に列する家柄です。その家格は官職最上位の「関白」を輩出する五摂家に次ぎ、太政大臣が極官となります。公家の中で今出川家など、七家が清華家に列していました。


父・公久は侍従・右近衛権少将を経て公卿(三位以上)となり、順調に昇進を重ね、大歌所別当などの要職を務めました。


天保7(1836)年には、体調が優れなかったのか、すべての職を退き、同年中にあえなく病没しています。美賀子は生まれてほどなくして父を亡くしてしまったのです。


今出川家はまだ五歳の兄・実頼が継承することとなりました。名門の公家とはいえ、美賀子たち兄妹の苦労が偲ばれます。


代役として徳川慶喜に嫁ぐ

嘉永6(1835)年、浦賀にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に対して開国を要求する事態となります。
日本の世論は、攘夷か開国かで混迷を深めていきました。


幕府の権威が失墜する一方、朝廷の存在感が高まっていきます。
前水戸藩主の徳川斉昭は尊王攘夷運動を主導。幕府海防参与の立場から開国に反対していきます。


同年、美賀子はその斉昭の七男・徳川慶喜と婚約することとなりました。
慶喜は御三卿の一橋家の家督を相続して当主となっていました。


御三卿は将軍を輩出することが出来る家柄です。慶喜も英明な人物として聞こえていました。
早くから次期将軍候補として周囲からの期待を受けていたのです。


歴史の表舞台に登場した美香子ですが、本来は別の人生を歩むはずでした。というのも元来、慶喜は関白・一条忠香の娘・照姫と婚約していました。

しかし、婚礼の直前になって、照姫は疱瘡に罹患。顔にはあばたが出来てしまいます。
そのため、彼女は婚約を辞退することになっています。つまり、美香子は彼女の代役として選ばれたということです。


美香子は忠香の養女となり、5月18日に婚約が成立。そのまま江戸に下向して、安政2(1855)年の11月15日に結納を交わし、12月3日に慶喜と婚礼を挙げました。


美賀子は公家の姫から、武家の正妻という立場になったのです。


失意の結婚生活

嫉妬の末の自殺未遂

慶喜の実父・斉昭は美賀子と慶喜の婚礼を喜び、美賀子にも思いやりをもって接していたといいます。
加えて慶喜の実母・吉子女王(貞芳院)は皇族・有栖川宮家の出身です。美香子とは同郷ということもあり、非常に接しやすい環境にありました。


しかし肝心の美賀子と慶喜の仲は、決して良いものではありませんでした。


慶喜は養祖母の徳信院と大変仲が良かったため、寂しい思いをしていた美賀子は2人に激しく嫉妬心を燃やし、稽古の邪魔をしたり、わめき散らしたりしています。その結果、慶喜の怒りに触れることもありました。


安政3(1858)年には、一橋家中において決定的な出来事が起きています。
美賀子は悲しみの余り、自害を図ったのです。慶喜と徳信院の関係に疑惑を持った末の行動でした。
命こそ助かりましたが、その後三ヶ月ほど伏せっていたようです。


この事件は、江戸の大名の間でも噂になりました。松平慶永や島津家の書簡の記載でも、美香子について触れています。


我が子を失う

美賀子には更なる試練が待っていました。


安政5(1858)年には、慶喜との間に女児を授かるという、美賀子にとって待望の時が訪れますが、
幸せな時は長くは続きませんでした。


出産から数日ほどで、女児が亡くなってしまうのです。これ以降、美賀子は塞ぎ込むようになっていきました。また、病弱な身でもあったことから、以後は子供を授かることもありませんでした。


安政6(1859)年、大老・井伊直弼による安政の大獄が勃発。慶喜は井伊の政敵であったために、隠居謹慎を言い渡されます。


大獄では、慶喜や尊王攘夷派に近い人間が次々と処罰されていきました。
美賀子のいる一橋屋敷も、もはや安住の地ではなくなっていたのです。


別居生活の始まり

しかし安政7(1860)年、突如として政治は転換点を迎えます。
桜田門外において、水戸浪士らが井伊直弼を襲撃。暗殺するという事件が起きました。


改元となった同じ年の万延元(1860)年、慶喜の処分は解除となりました。


文久2(1862)年には、幕政改革によって慶喜は将軍後見職に就任することとなります。


美賀子にすれば夫の政界復帰です。しかも以前より幕府の重要な地位に就いていました。
しかしこの慶喜の復帰が、美賀子との時間を奪うことになってしまいます。


将軍・徳川家茂は公武合体政策の実現のため、上洛を決定。慶喜も随行することとなりました。
このときから、美賀子は慶喜との別居生活を送ることになります。その期間は10年にも及ぶものでした。


しかし決して、美賀子と慶喜の間が断行状態になったわけではありません。慶喜は在京中、美賀子の実家である今出川家の世話になっています。


大奥に入らぬ御台所

大奥に入らず、将軍家御台所となる

慶応2(1866)年、将軍・家茂が長州征伐の途上、大坂城で病没しました。慶喜は徳川宗家の家督を相続し、征夷大将軍に就任します。その後も政局を主導するために京に滞在を続けます。


美賀子はこのとき、立場としては将軍家御台所(将軍の正室)となりました。通常であれば、御台所は江戸城の大奥に入って生活することになります。
しかし美賀子は大奥に入らず一橋屋敷で過ごす道を選びます。これは御台所では美賀子だけのことでした。


大奥に入らなかったのは、理由があると考えられます。
この時の大奥は、将軍不在のために形式上の存在となっています。
加えて大奥は、慶喜とは政治的距離がありました。将軍継嗣問題では、家茂を支持するなどしています。
美賀子が入れば、人質となる可能性も僅かながらにありました。


慶喜との10年ぶりの同居生活

慶応3(1867)年、慶喜は大政奉還を断行。ほどなく王政復古の大号令が下り、薩長中心の新政府が誕生しました。

鳥羽伏見の戦いが勃発すると、慶喜は戦う道を選ばずに撤退。逃げる形で江戸に帰還してきます。
その後慶喜は、上野の寛永寺や駿府の宝台院において謹慎。朝廷に恭順の姿勢を示し続けました。


このときも美賀子は一橋屋敷に暮らしています。一連の事態の中で、美賀子は対面することが出来ずにいました。


やがて戊辰戦争が終結。明治2(1869)年、慶喜の謹慎が解除されます。
維新後、慶喜は静岡に居住。しかし美賀子は東京の一橋屋敷に住み続けました。

明治2(1869)年9月、謹慎が解除された慶喜は静岡へ移り住むことになります。


しかし美賀子は、簡単に同居に踏み切れません。そこで慶喜生母の貞芳院や徳信院が取りなしました。
結果、美賀子は静岡行きを決断します。十四年ぶりに美賀子は江戸を出て、汽車に乗り込み静岡へ向かいました。


静岡での慶喜との生活


紺屋町の女主人

美賀子は静岡に移住後、紺屋町屋敷の女主人として振る舞います。
季節ごとに花見や紅葉狩りに赴き、湯治などをして悠々自適に過ごしました。
ようやく美賀子は慶喜との穏やかな暮らしを送ることが出来たようです。


しかしこのとき、慶喜は新村信、中根幸の二人の側室を抱えていました。しかし側室の間には、十男十女が生まれています。慶喜の二十人の子供たちは、全て美香子を実母として育てられました。


しかし美賀子の生活は孤独でもありました。
慶喜は二人の側室を寵愛。側室同士も仲が良く、子供たちも含めて同じ屋根の下で暮らしていました。
そんな中、美賀子は一人で出かけることが多かったと伝わります。
夫婦仲は改善したと言われていますが、美賀子にとって寂しさは続いていたようです。


死して慶喜と暮らす

明治27(1894)年、美賀子は乳がんを患います。
5月、治療のために東京にある徳川家達の屋敷に移りした。19日には旧幕臣で医師の高松凌雲の執刀による手術を受けています。


しかし術後、美賀子の経過は思わしくはありませんでした。肺水腫を併発するなどして、7月9日に亡くなりました。享年六十。院号は貞粛院。墓所は谷中霊園にあります。


辞世は「かくはかり うたて別をするか路に つきぬ名残は ふちのしらゆき」と伝わります。これは静岡で見送った慶喜に送った和歌だといいます。


後にここには、夫である慶喜の墓も建てられました。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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