「徳川斉昭」尊王攘夷思想の先駆け、「水戸烈公」!農を重んじ国を憂いた副将軍

 幕末における「水戸」といえば、尊王攘夷運動で思想的な先駆けとなった土地というイメージがあるのではないでしょうか。その原動力となった学問体系は水戸学と呼ばれ、外国勢力への懸念と国力増強を希求する憂国の士を多く輩出しました。

 水戸は徳川御三家の一角であり、江戸に近いこと等からその藩主は「副将軍」と呼ばれることがありますが、これは正式な官職名ではありません。御三家のうち、家中から直接将軍を輩出したのは紀州のみでしたが、ただ一人だけ間接的に水戸から生まれた将軍がいました。それが第15代、最後の徳川将軍として知られる「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)」です。間接的に、というのは水戸出身の慶喜は御三卿のひとつ一橋家の養子となり、そこから将軍に就任した経緯があったためです。

 そんな慶喜の実父が水戸第9代藩主「徳川斉昭(とくがわ なりあき)」です。のちに「烈公」の諡号を贈られたことからもうかがえるように、激しい気性を秘めた志士的な藩主だったことが知られています。

 慶喜にも大きな影響を与え、幕末の尊攘思想を牽引した「副将軍」。今回は、そんな徳川斉昭の生涯を概観してみることにしましょう!

出生~青年期

 徳川斉昭は寛政12年(1800)3月11日、第7代常陸国水戸藩主であった徳川治紀(はるとし)の三男として生を受けました。母は烏丸資補の娘にして権中納言・外山光実の養女、外山補子です。

 幼名は虎三郎・敬三郎といい、父・治紀より偏諱を受けて紀教(としのり)を名乗り、藩主就任後に第11代将軍・家斉から一字を授かって斉昭となりました。(以下、本コラムでは時系列に関係なく“斉昭”で統一)

 長兄の斉脩(なりのぶ)は第8代水戸藩主に、次兄の松平頼恕(よりひろ)は高松藩松平家へ養子に、弟の松平頼筠(よりかた)は宍戸藩松平家に養子にと、長じた兄弟は早くに道行が決まっていました。しかし斉昭は30歳間際まで部屋住みの身分であり、長兄・斉脩の控えとしての役割を担ったものと考えられています。

 文政12年(1829)、斉脩が病となりますが子がなかったため、斉昭がその嗣子として擁立されることになりました。この動きには、将軍・家斉の子でのちに第12代紀州藩主となった徳川斉彊(なりかつ)を次期水戸藩主として迎えようという重臣らへの反発があったといいます。

 その中心的役割を果たした一人が、水戸学の大家として知られる藤田東湖でした。斉昭擁立派の多くは下級武士でしたが、40名ばかりが無断で江戸に上り陳情におよぶなど、積極的な運動を行いました。

藩主就任~幕政参与

 同年11月、第9代水戸藩主に就任した斉昭は、藩政の改革に乗り出します。その基本方針は門閥派の排除と民政の充実を図るものであり、郡奉行の再編などを断行し下士層からも人材を積極登用するといった先進的なものでした。

 江戸住まいの斉昭でしたが自ら改革の実行を企図し、天保4年(1833)4月から約1年間水戸に帰国して領内を巡検。天保初年の飢饉による影響を鑑み、城下と農村地帯に「育子金」という補助金支給政策を実施しました。このことで戸数・人口増加をはかり、貯穀と倹約の奨励を行っています。

 斉昭は尊王攘夷思想を持ちながらも極めて開明的な感覚の持ち主であったとされ、蘭学者からも積極的に知識を吸収していました。外国勢力に対抗するための沿岸防備強化や海軍力増強の主張はその延長線上にあり、幕府に対してはしきりにその必要性を建策しました。

 斉昭の思想は水野忠邦による天保の改革にも影響を与えたとされ、天保8年(1837)は藩政において以下4つの指針を掲げました。

  • 領内全域の検地
  • 藩士の領内定住
  • 藩校および郷校の設立
  • 江戸定府制廃止(自身の領地に住まうこと)

 天保12年(1841)7月には藩校・弘道館が水戸城三の丸内に完成。学問では伝統的な漢学のみならず自然科学分野の教授も行われ、武芸においては斉昭自らが創始した砲術や薙刀術を含む各流派が研鑽されました。

 弘道館は日本最大規模の藩校であったとされ、現在でも当時の姿をうかがうことができるようになっています。斉昭は勧農と軍備による富国強兵策を推進したといえますが、藩内では保守門閥との対立が続き政情は安定しているとはいえませんでした。

 「追鳥狩」と呼ばれる軍事調練を行い、銃砲類などの近代兵器国産化を計画するなどしましたが、神道重視路線によってのちの廃仏毀釈のような運動を推進したため寺院勢力から猛反発を受けました。

 弘化元年(1844)5月には銃砲射撃訓練で安寧を脅かしたこと、仏教勢力に弾圧を加えたことなどから斉昭は退隠・謹慎を命じられ、江戸駒込に幽閉されるという事件が起きました。

 家督は13歳の長子・慶篤が継ぎ、高松藩・松平頼胤らが後見役に立ちました。しかし斉昭支持派の勢力は赦免を求めて集団で江戸へ陳情に赴くなどの活動を続け、弘化3年(1846)に謹慎が解除。嘉永2年(1849)年には藩政関与への復帰が許可されました。

 斉昭が幕政に関わるきっかけは、嘉永6年(1853)6月のペリー来航でした。鎖国状態だった日本が具体的な外圧との対峙を迫られる事件であり、時の老中首座・阿部正弘の要請で「海防参与」として参画することになったのです。

 水戸学の立場から攘夷を主張した斉昭は、国産の大砲や洋式軍艦を幕府に献上。安政2年(1855)には「軍制改革参与」に就任しますが、2年後に阿部正弘が死去すると開国派の井伊直弼らとの対立が激化します。

 なお、この争いは第13第将軍・徳川家定の継嗣問題も絡まっています。将軍継嗣問題の対立構図は以下のとおりです。

◆ 南紀派(徳川慶福を支持)
  • 井伊直弼(大老)
  • 平岡道弘(御側御用取次)
  • 薬師寺元真(御側御用取次)
  • 松平容保(会津藩主)
  • 松平頼胤(高松藩主)
  • 水野忠央(紀伊新宮藩主)
など…
VS
◆ 一橋派(一橋慶喜を支持)
  • 徳川斉昭(前水戸藩主)
  • 徳川慶勝(尾張藩主)
  • 松平慶永(越前藩主)
  • 島津斉彬(薩摩藩主)
  • 伊達宗城(宇和島藩主)
  • 堀田正睦(老中、佐倉藩主)
など…

 結局、斉昭は政争に敗れて井伊直弼が安政5年(1858)に大老に就任。独断での日米修好通商条約調印や、14代・家茂の擁立などを実現しました。

 この件について斉昭は同年6月24日に他の反対派大名らとともに江戸城に無断で登城し、井伊直弼を糾弾するという事件を起こします。この責によって7月より江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、斉昭は幕政から除外されることになります。

 同年8月8日、過激攘夷思想で知られる孝明天皇が幕政改革の密命を水戸藩に下した「戊午の密勅」がやがて明るみになり、翌年には斉昭の永蟄居命令を含む「安政の大獄」が断行。攘夷派らの大弾圧が進められていくこととなります。

安政の大獄のイメージイラスト

永蟄居~最期

 国許での永蟄居を命じられた斉昭は、事実上の政治生命を断たれた状態でした。万延元年(1860)3月3日、水戸藩士らが中心となって井伊直弼を暗殺した桜田門外の変が勃発し、斉昭がその黒幕ではないかとの噂がまことしやかに語られたといいます。

桜田門外の変における襲撃図(月岡芳年 画)
大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の襲撃図。(月岡芳年 画)

 しかし斉昭は同年8月15日に急逝。桜田門外の変からほどない頃だったため、井伊直弼の仇討ちとして彦根藩士の報復を受けたのではないかという噂が出回りましたが、彦根藩の調査によって否定されています。

 死因は持病の脚気や永蟄居のダメージ、壮年より認められた狭心症の症状などから心筋梗塞の可能性が指摘されています。享年は満60歳で、常陸太田市の瑞竜山にその墓が建てられています。

おわりに

 斉昭の国防論は、当時の外圧に対する危機管理としては正鵠を射た部分を否定できません。また、農本主義に基づいた内政策も一定の効果があったものの、藩内勢力の統合は実現せず混乱を極めることになります。

 徳川斉昭という人物は37人もの子をもうけたり、牛肉・牛乳を好んだりしたことから艶福家や型破りな藩主というイメージが先行していたような印象があります。しかし、真剣に国家の行く末を憂いて自ら行動を起こし続けた優秀な人材であり、志士らしい使命感をもった領主であったともいえるでしょう。

 斉昭は食物の恵みへの感謝を常に忘れないため、食事の前には農民をかたどった銅製の人形に一飯を供える習慣があったといいます。「農」あってこその「士」という哲学を胸に宿していたことがしのばれます。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
  • 観光いばらき 日本最大の藩校 弘道館

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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