【解説:信長の戦い】安食の戦い(1554、愛知県名古屋市) 清洲織田氏討伐の開幕戦!裏にはあの人物の影が。
- 2022/09/21
織田信長が清洲織田氏と戦った「安食(あじき)の戦い(中市場合戦)」。清洲織田氏の居城・清洲城内で起こったクーデターが発端となったの戦いですが、実は裏であの人が動いていた!? それでは安食の戦いとは、一体どのような戦いだったのでしょうか。
合戦の背景
父・織田信秀の死後、清洲織田氏は弾忠正(だんじょうのちゅう)家の新当主・信長に対して敵意を明らかにしていました。両者は天文21年(1552)8月、萱津の戦いで衝突。この戦いは信長の勝利に終わったものの、にらみ合いはその後も続いていたのです。守護・斯波義統が殺害される
それから約2年後の天文23年(1554)7月12日(※1)、清洲城内で守護(※2)の斯波義統(よしむね)が殺害されるという出来事が起こります。守護代で清洲織田氏の織田信友と、その家宰・坂井大膳らが共謀し、義統を自害に追い込んだのでした。
※1 前年の天文22年説もあり。
※2 守護とはいえ、この頃はすでに実権を守護代家の家宰・坂井大膳に握られていた。
遺児たちを保護
これは義統の子・岩竜丸(のちの斯波義銀/よしかね)が、若くて屈強な従者たちを連れて川遊びへ出かけている隙をついたクーデターだったそうです。せっ、せこい……。一方、その知らせを聞いた岩竜丸が信長を頼って逃げてきたため、那古野の天王坊というお寺に住まわせることに。さらには、もう一人の幼君も保護しています。こうして、信長は守護の遺児を保護することになったのでした。おやっ? これはもしかして、清洲織田氏を攻める“大義名分”を得ましたよね?
合戦の経過・結果
そして同年7月18日、信長はさっそく攻撃を開始します。これが「安食の戦い」です。「中市場合戦」とも呼ばれます。信長考案の長槍が勝因
命を受けた柴田勝家らは、清洲城へと向かいました。対する清洲方は山王宮辺り(現在の日吉神社)で応戦。しかし打ち破られ、乞食村(尾張春日井郡安食村)、そして誓願(じょうがん)寺(現在の名古屋市北区成願寺)まで後退します。そしてついに、城内にまで追い込まれました。なぜこんなにも、柴田勢が強かったのでしょう。それは槍にあったと言われています。
『信長公記』によると、柴田勢の槍は長かったのに、清洲方の槍は短かったそうです。シンプルな説明にビックリしますが、なんでもこの長槍は信長が考案したのだとか。
そしてこの戦いで清洲方は、有力者であった河尻左馬丞(さまのじょう)や織田三位(さんみ)らを含む、30名ほどを失いました。清洲方は大ダメージを受けて終わったのですね。
そもそも信長の策略だった?
さて、敵方で起こったクーデターが発端となったこの戦い、何だか怪しいと思いませんか? こんなにも信長に都合が良いように、事が進むものでしょうか……。そもそも守護・斯波義統の自害は信長の策略だったのでは? という見方も強いようです。さらに遺児たちは“保護”したのではなく、那古野に“押し込めた”とする説まで。だとすると、まったく違う戦いにも見えてきますね。ですが戦国武将たるもの、これくらいしなければ生き残れないのでしょう。
おわりに
信長と対立する、清洲織田氏の中で起こったクーデター。この事件を発端に、信長が清洲織田氏を攻めたのが「安食の戦い(中市場合戦)」でした。なお、この戦いの翌年には、織田信光の謀略によって清洲城は陥落。信友は切腹となって清洲織田氏は滅亡しています。また、坂井大膳も駿河の今川氏の下に逃亡して、その後の消息は不明だとか…。
【主な参考文献】
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 中日新聞Web「長槍が強さの秘密。清須中市場の戦い」
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